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ポンセ()は、アメリカ合衆国プエルトリコ島の南部に位置する都市。サンフアンに次ぐ都市であり、その名称は、スペイン人の有名なコンキスタドールであるフアン・ポンセ・デ・レオンの孫のフアン・ポンセ・デ・レオン・イ・ロアイサ (Juan Ponce de León y Loayza) にちなんでいる。街には''La Perla del Sur (南の真珠)''、''La Ciudad Señorial (高貴な街)''、''La Ciudad de las Quenepas (ゲニップ〈チブサノキ〉の都市)''などの別名がある。 ==歴史== 現在のポンセのある地域は、タイノ族が住んでいたプエルトリコの南岸に沿って広がるグアイニア (Guaynia) 地域に属し、カシケ(酋長)のAgüeybanaが治めていた。彼はスペイン人コンキスタドールのフアン・ポンセ・デ・レオンが島に到着した際に、謁見したカシケの一人であった。 植民時代の初期、スペイン人はプエルトリコ島南部のJacaguas川周辺に居住を開始した。安全上の理由から、彼らはポルトガル川 (Portugués river) の土手に移住し、その場所をバラヤマ (Barayama) と呼んだ。1646年頃、川とGuayanilla湾の間の土地は、ポンセと呼ばれるようになった。 1670年に小さな居住区の中央に、グアダルーペの聖母を称える小さなチャペルが建設された。住民の中には、フアン・ポンセ・デ・レオン・イ・ロアイザや近隣のサンジェルマンからやって来たポルトガル人のドン・ペドロ・ロドリゲス・デ・グズマン (Don Pedro Rodríguez de Guzmán) らがいた。 1692年9月17日、スペイン王のカルロス2世は、チャペルを小教区に変更する勅許 (Cédula Real) を発行し、この小規模居住区は村落 (Hamlet) として公式に認められた。フアン・ポンセ・デ・レオンの孫であるフアン・ポンセ・デ・レオン・イ・ロアイザが、この勅許を取得するのに、役割を果たしたと考えられている。 1700年代初頭、ドン・アントニオ・アバッド・ロドリゲス・ベリオス (Don Antonio Abad Rodriguez Berrios) が、聖アントニオ・アバッドの名の元で、小さなチャペルを建てた。チャペルのあるこのエリアの名称は後に、近代のポンセにおいて歴史的に重要なエリアであるサン・アントン (San Antón) となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポンセ (プエルトリコ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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